朝吹真理子「きことわ」(新潮9月号)、読み始めてから読み終わるまでの記憶が無い。すっかり作品中の世界に浸っていた。「活字に絡め取られる」という言葉が当てはまる。

僕も毎日文章を書いている。しかしそれは「レポート」である。自分の調べたこと、考察を「明快に」書き、他人に伝えるためのものであり、文学作品とは目的が全く異なる。
そこでは主旋律以外の無駄な言葉は削られる。
とはいえ、文体は結構不安定だ。想定する読み手(発注者など)やレポートの目的、誰が最終チェックするか(すっかり組織人ですね) などにより文体は変わる。それ以外に、印象の強い文学作品に触れた後は大きく変わる。詩を読んだ後は妙なリズムが生まれるし、森博嗣を読んだ後は読点が倍増、小島信夫の後は破綻...それはそれで面白い。
しかし、「きことわ」は多分文体に影響は与えない。この小説は「文章を読んでいる」ことを感じさせない。僕らが普段書いている、読んでいる文章とは別の次元のモ ノである。この場合、テキストは読んで理解するものではない。作者が作り出した世界に接続するための呪文である。試しに読んでみるといい。読 み始めて数秒後、「夢を見ている」はずだ。

僕も毎日文章を書いている。しかしそれは「レポート」である。自分の調べたこと、考察を「明快に」書き、他人に伝えるためのものであり、文学作品とは目的が全く異なる。
そこでは主旋律以外の無駄な言葉は削られる。
とはいえ、文体は結構不安定だ。想定する読み手(発注者など)やレポートの目的、誰が最終チェックするか(すっかり組織人ですね) などにより文体は変わる。それ以外に、印象の強い文学作品に触れた後は大きく変わる。詩を読んだ後は妙なリズムが生まれるし、森博嗣を読んだ後は読点が倍増、小島信夫の後は破綻...それはそれで面白い。
しかし、「きことわ」は多分文体に影響は与えない。この小説は「文章を読んでいる」ことを感じさせない。僕らが普段書いている、読んでいる文章とは別の次元のモ ノである。この場合、テキストは読んで理解するものではない。作者が作り出した世界に接続するための呪文である。試しに読んでみるといい。読 み始めて数秒後、「夢を見ている」はずだ。

